Monday, March 12, 2012

震災 あの日から

2011年3月11日金曜日午後2時46分
僕はオフィスにしている部屋でトレーディングの画面の前で株式市場の引けを見ていた。
そこに突然「ぐらっ」結構大きい。奥さんとうちに来ていた友人に「地震だ。大きい」ととっさに呼びかけた。


当日は友人の犬も預かっており、うちには大人3人、犬2匹がいた。地震は大きいし、収まる様子もない。高層ビルの26階にある我が家は信じられないぐらい揺れた。鍵をかけていないベランダの出入り口の扉がレールの上を往復し、ストッパーに当たっては「ガタンガタン」ト大きな音を立てている。ビル全体がコンニャクのようにびよんびよん曲がって揺れる物だから、大きくきしむ音が鳴り響く。

ずいぶん長い時間揺れていた記憶がある。怖かった。命の危険を感じた。

3人+2匹で居間のソファーにしがみついていた。うちの犬は震えていたが奥さんはもっと震えていた。

しかし42階建ての26階。ビルの下の部分が倒壊したら一撃でダメだし、上が折れてもこちらはダメ。どっちにしろダメだと思った。机の下に隠れたって同じ、と思い開き直って外を見ると東京タワーも隣のオフィス棟もコンニャクのように曲がりながら揺れている、というより振幅している。地震は収まったのだろうが、コレだけの大きなビルが振幅した訳だからしばらくは惰性で振幅は続く。

第一弾の大きな揺れの後余震が続いた。浅知恵だったかもしれないが、26階に取り残されるのもいやだったので3人+2匹で非常階段で地上に降りた。そこには他の住人もおりてきていた。なにか異様な雰囲気だった。誰も経験したことの無いような大きな揺れ。ワンセグ放送で見ると東京湾の反対側から火が出ているとのこと。そして津波警報。近くの小高い丘を目指して避難した。結構寒かった。地上でブラブラ(?)していたら同じビルに住む元上司が歩いてきた。心配そうに家族と連絡が取れないと言う。彼らは36階に居住している。とてもでは無いが36階まで上がる勇気が無かったので見送った。その後彼の奥様と娘さんは銀座でお買い物をしていたらしく車で無事帰宅され地上でお会いした。

1時間ぐらいして家に戻ったが、危険な状況なので覚醒している。どうも興奮気味だ。大手ビル会社経営のマンションのせいか、「あっという間」に電気、ガス、水道のライフラインもエレベーターも復旧。家に泊まっていた友人は翌日(12日)の飛行機で子供達が待つイギリスへ帰国予定。。。。飛行機どころではないだろう、と言うことでフライトをリスケしてもらう。ルフトハンザはなかなかの対応だった。しかしフライトはドンドン先送りになるは、後から分かったのだがドイツ政府がパイロットやCAを日本に入れないように指導していたので、結局彼女は韓国・仁川経由で帰ることになった。

翌日12日ごろからは皆様ご存知のとおりのながれだったのだが、11日から12日未明まではなにかおかしいぐらい鮮明に覚えている。立て続けに襲う余震。東電からの情報量の少なさ。あわてふためいている頼りにならない政府。どれをとってもこういう災害時は自分たちでなんとかするしか無いんだ、と言うことが良く分かった。

この災害で学んだことはやはり災害に備えて色々備蓄しておくべきである、と言うこと。

普段妻がコストコで大量に買い物をしているので(というかコストコは問屋のようなものなのであそこで買い物をすると必然的に大量になる)、食料はそれほど心配では無かったもののでも心配だ。ラジオは絶対会った方がよいだろう。これは電池等に頼らない手動で発電する物を備えたい。懐中電灯もLED式の物を用意したい。あとは登山用などの簡易食器や鍋なども用意したい。そしてインスタントラーメンを大量に備えたい。
他にも色々あるが特記したいのはトイレット・ペーパー。これは中の芯を抜いて平たくした物をジップロックなどの袋に入れて防水対策しておくべきであろう。芯を抜けば体積はだいぶ小さくなる。こうした災害時必要な物をリュックサックに入れて常備しておきたい。すくなくとも多少の気休めにはなる。

と、いうことで大震災から1年たち、いろいろな思いにふけり悲しみ、思い出し、地震国に住むと言うことの大変と意味を考えながら日曜日を過ごした。

この場で改めて、震災により被害を受けた方達、いまだに避難生活をよぎなくされている方達、犠牲者の方達とそのご家族へ心よりお見舞い申し上げると同時に一日も早い復興を心からお祈り申し上げます。

ばずび〜拝

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